縄文人は髪を切ったのか?
学校法人 国際文化学園(平野徹理事長)の美容考古学研究所(村田孝子所長)では「美容考古学 研究報告vol.3」を発表した。
美容考古学とは先史時代から近現代までのライフヒストリーを髪型・化粧など美容の観点から考察するもの。
中でも、同研究所では縄文時代の土偶の髪型についてサンプル収集、検証、ヘアスタイルの再現を試みている。
このたびの発表は以下のとおり(発表資料から抜粋)。
①土偶の三つ編みは、時代を超えて近代へ
(国際文化学園 美容考古学研究所 所長 村田孝子)
〇明治時代の三つ編みについて現代の三つ編みが日本に根付いたのは明治時代に西洋から紹介されて以降。文献によると明治18年にそれまでの日本髪を排して束髪にする運動「夫人束髪会」を機に、全国に三つ編みが広がっていった。ただし、縄文時代から三つ編みらしき髪型は土偶に残っており、なぜ近代まで日本で三つ編みが途絶えたのかは今後の研究課題。
②縄文人は髪を切ったのか?
(千葉市教育委員会 佐藤 洋~石器や縄文土器製作など実験考古学の専門家~)
〇縄文人の髪質は「巻きぎみ」2019年に国立科学博物館を中心とした研究グループにより、北海道礼文島から出土した約3,800年前の女性の縄文人骨のゲノム解読によると「髪質は細めで巻きぎみ」という遺伝情報が発表された。
〇縄文人は髪を洗ったのか?日本における洗髪の歴史を調べると、平安時代は年1回程度、江戸時代の女性でも月1~2回程度。髪を洗わずとも、櫛で梳かすことで皮脂の油や汚れをある程度は落とせた。
一方、縄文人がどれくらいの頻度で髪を洗ったかを確かめる術はないが、縄文時代も現代と同じく高温多湿の気候であることを考慮すると、適度な洗髪や洗髪に代わる何かしらの対策をとっていた可能性がある。
〇髪は切るもの?切らないもの?縄文人が髪の毛を切ったのかどうかを確かめる術は存在しない。ただし、縄文時代における儀礼として一定の年齢で抜歯する習慣や、フォーク状の刻みを入れる叉状研歯の風習が知られている。縄文時代に髪に関する通過儀礼が存在したかは定かではないが、中国のヤオ族の女性が18歳を迎えた時に初めて髪を切り、その後は一生を終えるまで髪を切らないという通過儀礼があるように、外見的特徴に関する通過儀礼があったかもしれない。
〇切れる道具「石器」「貝刃」縄文人が髪を切っていたと仮定すると以下の道具が考えられる。
・石のカミソリ~天然ガラスの黒曜石などガラス質の多い素材を用いた石器
・貝のカミソリ~ハマグリなど二枚貝を加工した貝刃
※現状で「髪を切る」という作業で残る痕跡は確認されていない。
③エッセイ/身を飾ること
(文筆家 譽田亜紀子)
④特集/三つ編み土偶
(国際文化学園 美容考古学研究所 主任研究員 篠原博昭)
〇三つ編み土偶の髪型再現富山県八尾市の長山遺跡から出土した「三つ編み土偶」。縄文時代中期(約5000年前)と推定される。この土偶は側頭部に細かな三つ編みが施され、後部うなじのあたりから一筋、背中に向かって垂れている。
【この三つ編みを現代のウイッグで再現】まず頭頂部の髪から左右二つの毛束を取り、頭の丸みに合わせてクロスさせて土台にする。そこに残りの髪を少しずつ分け取り三つ編みにし、土台の上に被せていく。三つ編みを一筋残し、うなじから下ろしてアクセントにした。縄文時代にヘアピンは無く、どのようにして毛束を止めたり形づけたのかは不明。この疑問に関しては、以下の髪質と関連して考察している。
〇縄文時代中期は三つ編みヘアが全盛
縄文時代の草創期や早期移籍から土偶はあまり出土していない。出ても頭部がないものがほとんど。それが中期(約5000年前)になると土偶に頭部がつき、髪型と思われるものが描写され、三つ編みもしくは明らかに髪を編んだヘアも出てくる(長野県に多い)。 なぜ、縄文人は三つ編みにしたのか? まず、ヘアデザインとして「おしゃれ」だったのではないか。縄文人は土器製作などを通じて縄目模様の面白さに気づいていたので、それを髪型に採り入れたのではないか。 また、機能的な理由も考えられる。それは縄文人の髪質に起因する。強い縮毛の髪をまとめるには少しずつ毛束を取り三つ編みにするのが理にかなっている。三つ編みをした土偶が多いのは、縄文人の髪質がアフリカや中南米の人たちのように縮毛で、まとまりにくかったからではないか。