DADA CuBiCで25年。日本屈指のカラーリストが、マレーシアで見つけた“次の色”

DADA CuBiCで25年。日本屈指のカラーリストが、マレーシアで見つけた“次の色”

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写真提供:川口展弘

マレーシアの首都クアラルンプール。常夏の空気と多民族カルチャーが交わるこの街は、英語が通じる暮らしやすさから“教育移住”やクリエイターの拠点として静かに注目を集めている。

そのクアラルンプールに昨年9月、新たな一歩を踏み出したのが、渋谷にある〈DADA CuBiC〉で20年間カラーリストを務め、日本のヘアカラーシーンをけん引してきた川口展弘さんだ。長年のキャリアを一区切りし、家族とともに移住。現在は現地の日系サロン〈Lala HAIR DESIGN〉でトップカラーリスト/スタイリストとして働きつつ、撮影やサロンのブランディングへ活動の場を広げている。

強い日差しとカルチャーの色彩が混ざり合うこの街で、彼はなにを求め、どんな未来を描いているのか。現在地と展望を聞いた。

川口展弘(かわぐち・のぶひろ)
Lala HAIR DESIGN クアラルンプール


1998年「DADA CuBiC」にアシスタントとして入社後、デビュー後はカラーリストとして20年在籍。2004〜07年はロンドンでヘアサロンとセッションワークで経験を積み帰国。復帰後は「DADA DESIGN ACADEMY」の講師として人材育成も担う。セミナーや業界誌の撮影の傍ら、店長・マネージャーとしてサロン運営にも携わる。23年にトップカラーリスト就任し、24年に退社。同年9月に家族とともにマレーシアへ移住し現職。

東京で積み重ねた25年

〈DADA CuBiC〉――英国ヴィダル・サスーンでアートディレクターを務めた植村隆博さんが97年、原宿に開いたクリエイティブサロン。

──まず入社とカラーリストになった経緯を教えてください

とにかく上京したくて地元長崎を飛び出し、東京で短大に通っていたんですが、スーツを着て働く自分が想像できず、退学し美容師を志しました。兄の友人が下北沢で美容師をしていて、「尖っていて勢いのあるサロンがあるよ」と紹介されたのが原宿でオープン1年後の〈DADA CuBiC〉。当時はサロンのこともよく知らず「美容師になりたい」という思いだけで、植村(創業者)に話を聞いてもらって、免許取得のために通信制に在学しながらサロンで働かせてもらえることになりました。カリキュラムの終盤でカッターかカラーリストのどちらかを選ぶタイミングがあり、色の面白さを感じたカラーリストを選んだ、という流れです。

写真右が川口さん。「DADA DESIGN ACADEMY」の様子。(2018年)

──25年間はどんな毎日でしたか?

サロンに入って最初の数年は、仕事と私生活の境目がない毎日でした。朝まで撮影のアシスタントをし、そのまま営業に入り、夜遅くまでモデルハントをし、終電で帰宅。そして休日もモデルハント。アシスタント時代はハードだけど濃密な時間だったと思います。ロンドンから帰国してカラーリストとして復帰後、アカデミーでの講師、業界誌での企画担当などさまざまなチャンスと経験を得ることができました。植村の背中から、仕事との向き合い方やクリエイションの姿勢を学べたことは、大きな財産です。

スタッフは生え抜きばかりで、家族よりも長い時間を過ごしてきた感覚があります。全員が同じイズムを持っていて、考え方ひとつ一つがクリエイションなんですね。サロンワークでも作品づくりでも常に「どう工夫するか」を議論して実行する。そのプロセスは昔も今も変わりません。幹部としてマネジメントにも携わったことで、人を育て、組織を動かす面白さにも出会えました。

「DADA DESIGN ACADEMY」で講師を務める川口さん(2019年)

──ロンドンでの経験や、海外視点はキャリアにどう影響しましたか?

カラーリストを1年間経験したあと「DADAのルーツを肌で感じたい」と3年間ロンドンへ行かせてもらいました。はじめは英語も分からず苦労しましたが、サロンワークと並行してセッションワークをこなし、経験を積めました。アート、ファッション、広告デザイン、自然、とにかく色を見ることが好きなので、海外の街並みやカルチャーは大きな栄養源。写真や音楽が趣味なのも相まって、「いつか海外に住みたい」という思いが、自然と芽生えたんですよね。

マレーシア移住の理由と背景

──東京を離れ、マレーシアに移住すると決めた理由・魅力は?

娘がちょうど10歳の時に、英語環境で学ばせたいと考えたのがきっかけです。自分も25年同じ場所でやり切った節目でもあったので、もう一度ゼロから挑戦したいという気持ちも重なりました。

暮らしているクアラルンプールは、教育移住先としても人気です。インターナショナルスクールの選択肢が多く、学費も比較的手頃。住環境も整っていて、日本でいうタワーマンションのような物件に、かなりリーズナブルな価格で住めます。

川口さんが住んでいるコンドミニアムにあるスカイデッキからの眺め

多民族都市ながら英語が通じる点も大きいです。タイやベトナムは少し言葉の壁があるし、フィリピンは治安の面が気になる。シンガポールは物価が高い。その中で、クアラルンプールがいちばんバランスがいいと感じました。

──移住を決断するまでのプロセスは?

いちど家族で下見に訪れました。インターナショナルスクールを見学し、何軒か日系のヘアサロンにも足を運びました。今のオーナーが「幹部クラスで迎えたい」と言ってくれて、「ここなら家庭も仕事も両立できる」と確信できたのが大きかったです。

マレーシアは日本と違って美容師免許は不要ですが、働くには就労ビザが必要(ワーキングホリデー制度はない)で、就職先のサロンがスポンサーになります。僕は帰国してからビザ申請を始めましたが、取得までに7〜8か月かかりました。

仕事と暮らし・発見

(左から)川口さん、Megさん、ディレクターのJunさんとBenさん

──現在のサロンと働き方について教えてください

クアラルンプール中心部にある日系サロン〈Lala Hair Design〉(ララヘアデザイン)で、スタイリスト/トップカラーリストとしてサロンのブランディングやビジュアルまわりのディレクションを任せてもらっています。働く日数や時間は日本にいた頃とそれほど変わりません。価格帯も日本とほぼ同じで、カットが180リンギット(約6000円弱)、カラーは230リンギットから(約7500円〜)です。

──顧客の層や、ニーズの違いはありますか?

お客さまの7割は日本人。駐在員のご家族や、教育移住で母子留学されている方も多く、日本語を使う機会がほとんどです。あとは中華系の方が中心で、欧米のお客さまもいらっしゃいます。ただ、マレー系やインド系の方はあまり来られません。というのも、マレー系の女性はイスラム教徒が多く、男性に髪を見せられない。ヒジャブ(イスラム教徒の女性が頭に巻くスカーフ)を外す場として個室が必要だったり、サービスの在り方にも宗教的な配慮が求められます。日本ではあまりない文化的な要素ですよね。

──ローカルと接していく中で、自分の立ち位置をどう感じますか?

正直、「日本人だから」で特別扱いされる時代ではないと感じています。SNSで情報がオープンになり、ローカルの技術もどんどん上がっている。だからこそ、自分の武器が何かを明確に持っていないと埋もれてしまう。その点、日本にはヘアショーやコンテスト、アカデミーなど、デザインに本気で向き合う土壌がある。自分の“つくりたいもの”を突き詰めて表現するカルチャーがあるのは、大きな強みだと思います。

マレーシアの多くのサロンは“生活のための美容”が主流で、ファッションやカルチャー、ヘアが交わるような場面には、まだあまり出会えていません。尖った服やアートが好きな人たちとつながれたら、もっと面白いことができる気がしています。

川口さんが手がけた〈Lala HAIR DESIGN クアラルンプール〉のビジュアル

“次の色”とこれからの展望

───クアラルンプールで見つけた“次の色”とは?

ここでは、祝祭のたびに、街の色ががらりと変わるんです。チャイニーズニューイヤーの真紅、ラマダン明けに飾られる深いグリーン、ディパバリのサフランオレンジ……多民族国家ならではの行事が次々とやってきて、そのたびに街が染まる。南国の強い日差しと混ざると、日本ではあまり見ないコントラストが生まれるんです。そういう色の重なりと、日本で培った感覚と混ぜ合わせることで、新しいバランスが見つかればいいなって。

───川口さんの挑戦、ビジョンを教えてください

「自分だから提案できること」をひとつずつかたちにしていきたいと思っています。これまでお客さまが踏み込んでこなかった色やデザインを、僕だからこそ提案できると思っているし、その延長線上に、現地の美容師さんたちと関わっていく未来があるかもしれない。

いずれは、アカデミーのような形でローカルの美容師さんに日本の技術を教える場をつくっていきたいとも考えていて。今はオーナーと相談しながら、まずは動画を作成し、ちょっとしたアウトプットを少しずつ考えています。

マレーシアでは、僕はまだ“何者でもない”。だからこそ、いろんなことに挑戦して名前を出していくタイミングだと思っています。これまで、どちらかというと裏側で支えることが多かった。でも今は自分自身が動けるフェーズにいる、面白い時期だなと感じています。

───海外への機運は業界的にも高まりを見せています。何かアドバイスをお願いします

海外だからといって特別なことはなくて、根本は技術とホスピタリティです。SNSでの見せ方を工夫することも大事ですが、それ以上に大切なのは誰にも負けない“武器”を徹底的に磨くこと。それさえあれば言葉の壁があってもやっていけるし、現地の文化を吸収する余裕も生まれる。旅券の保有率もわずか17%と、まだまだ日本人美容師の海外挑戦は少ないからこそ、可能性は広がっています。怖さよりも好奇心。まずは、マインドだけでも外に向けてみてほしいです。

木村 麗音
執筆者
木村 麗音

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